2006年10月29日
40代の57%が肥満を自覚
本日の神戸新聞1面より
内閣府が28日に発表した「体力・スポーツに関する世論調査」によると、
働き盛りとされる年代で運動不足を感じている人が多く、
30代が80.7%でトップで、次いで40代の78.9%、20代の74.8%と続いた。
また、全体の43.4%が「自分は肥満」と感じると回答。
年代別では、40代の57.0%が最も割合が高い。男女別では男性39.9%、女性46.5%。
「運動不足」と回答は平均で67.6%になり、「肥満」の回答平均とともに過去5回の調査との比較では最高になっている。
内閣府は「中高年層は生活習慣病など肥満が原因とされる病気を一番心配する年代」と指摘しており、
内臓脂肪の蓄積が深刻な病気に繋がる※メタボリック症候群への不安感が”自覚”の背景にあるようだ。
その裏返しで、健康志向が高まっているとみられ、この一年間で「運動やスポーツ」を行ったと回答した人は2004年の前回調査より6.3ポイント増の74.5%。「まったくしなかった」は25.5%だった。
※メタボリック症候群
内臓に蓄積した脂肪が一因となって高脂血、高血圧、高血糖などを重複して発症した状態を指す疾患概念。放置すると脳卒中、心筋梗塞、糖尿病などに進行する危険性が高まる。
日本肥満学会などは診断基準としてウエストが男性85㌢、女性90㌢以上で、最高血圧が130以上か最低血圧85以上といった項目を挙げている。

私も40代に入り、ベスト体重より5kgも太ってしまった。
上記のイラストとは程遠いが、最近おなか周りがとても気になる年頃です。
だから大好きなビールも気持ち控えめに。
今の仕事で運動不足は考えられないが、練習不足は明らか。
でも、練習する気力なし。
今は、身体をちょっとでも休めることが一番かな~。
内閣府が28日に発表した「体力・スポーツに関する世論調査」によると、
働き盛りとされる年代で運動不足を感じている人が多く、
30代が80.7%でトップで、次いで40代の78.9%、20代の74.8%と続いた。
また、全体の43.4%が「自分は肥満」と感じると回答。
年代別では、40代の57.0%が最も割合が高い。男女別では男性39.9%、女性46.5%。
「運動不足」と回答は平均で67.6%になり、「肥満」の回答平均とともに過去5回の調査との比較では最高になっている。
内閣府は「中高年層は生活習慣病など肥満が原因とされる病気を一番心配する年代」と指摘しており、
内臓脂肪の蓄積が深刻な病気に繋がる※メタボリック症候群への不安感が”自覚”の背景にあるようだ。
その裏返しで、健康志向が高まっているとみられ、この一年間で「運動やスポーツ」を行ったと回答した人は2004年の前回調査より6.3ポイント増の74.5%。「まったくしなかった」は25.5%だった。
※メタボリック症候群
内臓に蓄積した脂肪が一因となって高脂血、高血圧、高血糖などを重複して発症した状態を指す疾患概念。放置すると脳卒中、心筋梗塞、糖尿病などに進行する危険性が高まる。
日本肥満学会などは診断基準としてウエストが男性85㌢、女性90㌢以上で、最高血圧が130以上か最低血圧85以上といった項目を挙げている。

私も40代に入り、ベスト体重より5kgも太ってしまった。
上記のイラストとは程遠いが、最近おなか周りがとても気になる年頃です。
だから大好きなビールも気持ち控えめに。
今の仕事で運動不足は考えられないが、練習不足は明らか。
でも、練習する気力なし。
今は、身体をちょっとでも休めることが一番かな~。
2006年10月27日
ハロウィン
2006年10月24日
昨日のサプライズ!
昨日、姫路事業所横にあるフットサル場で行われているジュニアサッカースクールを見学しました。

そこでは、驚くべき光景が!
どこから沸いてきたのか子供たちが総勢約40名。小学校2、3年生から中学2年生くらいまでの男女。
しかも男子よりも女子の方が多かった。
時間は午後6時半。「なんでこんな時間にこんな多くいるんや!」と一回目のサプライズがあり、
フットサル場の中に40名の子供たちと2名のコーチ。
個人の技術力や実践力を身につけるメニューの豊富さに2回目のサプライズが。。。。
そうこうしていると、次のレッスンの子供たちが入ってきました。
「こんばんは!」と挨拶され、思わず「こんばんは」と言い返しましたが、
ベンチで座って見学している保護者全員に挨拶しながら入っていく光景を見て3回目のサプライズ!
昨日は会議のためスーツ姿の私を保護者だと思ったのでしょうが、入ってくる子供たちが次々に挨拶してくれます。
あっという間に1時間のレッスンが終わり、最後にコーチが「はい、挨拶」と言うと
子供たち全員が保護者に向かって整列し始めました。
すると、座っていた保護者全員が立ち上がったので、私も思わずた、た、立ち上がりました。
なんと子供たちが「ありがとうございました」と保護者に向かってお辞儀をしたのです。
そう、挨拶はコーチにするのではなく、親に向かって感謝のお礼を言うことだったことに4回目のサプライズ!
そして、そのレッスンが終了するとすぐに次のレッスンの子供たちが入ってきて自主練をはじめたことに5回目の
さらに、受講人数が前のレッスンをはるかに上回る約70名。時間は7時半。6回目
さらにさらに、まずドリブル練習を全員が裸足!7回目!OH!YEAH!
ちょっと見学のつもりが、いつの間にか2時間。
テニスでも使えそうなメニューをたくさんいただきました。


そこでは、驚くべき光景が!
どこから沸いてきたのか子供たちが総勢約40名。小学校2、3年生から中学2年生くらいまでの男女。
しかも男子よりも女子の方が多かった。

時間は午後6時半。「なんでこんな時間にこんな多くいるんや!」と一回目のサプライズがあり、

フットサル場の中に40名の子供たちと2名のコーチ。
個人の技術力や実践力を身につけるメニューの豊富さに2回目のサプライズが。。。。

そうこうしていると、次のレッスンの子供たちが入ってきました。
「こんばんは!」と挨拶され、思わず「こんばんは」と言い返しましたが、
ベンチで座って見学している保護者全員に挨拶しながら入っていく光景を見て3回目のサプライズ!

昨日は会議のためスーツ姿の私を保護者だと思ったのでしょうが、入ってくる子供たちが次々に挨拶してくれます。
あっという間に1時間のレッスンが終わり、最後にコーチが「はい、挨拶」と言うと
子供たち全員が保護者に向かって整列し始めました。
すると、座っていた保護者全員が立ち上がったので、私も思わずた、た、立ち上がりました。
なんと子供たちが「ありがとうございました」と保護者に向かってお辞儀をしたのです。
そう、挨拶はコーチにするのではなく、親に向かって感謝のお礼を言うことだったことに4回目のサプライズ!

そして、そのレッスンが終了するとすぐに次のレッスンの子供たちが入ってきて自主練をはじめたことに5回目の

さらに、受講人数が前のレッスンをはるかに上回る約70名。時間は7時半。6回目

さらにさらに、まずドリブル練習を全員が裸足!7回目!OH!YEAH!

ちょっと見学のつもりが、いつの間にか2時間。
テニスでも使えそうなメニューをたくさんいただきました。

2006年10月18日
リーダーの条件
「現在の日本の混迷はリーダー不在を原因としている。では、リーダーの条件とはいったいどういうものか。
『人間回復の経営学』の著書であるジョセフ・パジ-ルは統率者の三つの条件を挙げる。
仕事の知識があり技術に成熟していること。
創造的な行動、
そして感性の叡智である。
知識や技術を身につけていなければ人を統率できないのは当たり前だが、パジールに言わせれば、
こんなものは全体の二十五パーセントもあればいいということになる。これはうなずける。
明治大学野球部監督であった島岡吉郎さんは応援団長あがりで野球の技術ゼロ。
キャッチボールすらできなかった。それでいて、戦後のアマチュア監督ナンバーワンに挙げられる。
こうした例は、とりわけスポーツの世界でしばしば見られるが、仕事の知識や技術に百パーセント習熟していなくても、名統率者、名リーダーにはなれるのである。
逆に、名プレーヤーが必ずしも名監督になれないことも承知のとおりである。
また、パジールは言う。行動力がなければ人の上には立てない。しかし、闇雲に行動しても人は動かせない。
人を動かすには創造的に行動しなくてはならない。
喜働とういう言葉がある。働きが喜びになるのは、人間が創造的になったときである。
人間は意欲し創造しているときが一番生き生きしている。
ヒットラーはこの喜働を国家統合の合言葉にした。ドイツ語でアルバイトフロイテという。
日本の会社がメキシコシティに支店を出すことになった。そこで、使う椅子を町に探しに行った。
ある店を覗くと職人が椅子を作っていた。その椅子があまりにも見事なので、日本人は「これと同じ椅子を十二個頼む」と注文した。
後日、十二個の椅子と請求書が届いた。請求書を見ると十五個分の請求がある。「この請求は間違っているじゃないか」というと、
メキシコの職人はこう啖呵を切った。「わしらにとって椅子作りは喜びなんだ。この椅子はこう作りたい、この椅子はああ作りたいと創意したり工夫したりして椅子を作っている。
喜びいさんで椅子を作っているんだから、いい椅子に決まっているよ。それなのに、あんたときたら同じ椅子を十二個も頼んだ。
おかげで椅子作りの喜びが奪われてしまった。だから、わしはあんたに対して退屈料を求める権利がある。
だから三個分の上乗せをした。」それを聞いた日本人は返す言葉もなく十五個分の料金を払って帰ってきたという。
喜びのくっついた行動ならばひとを動かすことができる。そういう行動を率先してできる人間がリーダーとなれるのである。
ところで、パジールは、この創造的な行動力も二十五パーセントあればいいと言う。
では、残り五十パーセントを占めるリーダーに最も必要な条件とは何か?それが、感性のダイナミズムである。
感性のダイナミズムとは何か。それは、人の痛みを己の痛みにできる力、人の喜びを自分の喜びとして感じ取る力。
そして、自分の喜びを人に感じ取らせる力でもある。感じ取る力と感じ取らせる力、これを失っている人間は人の上には立てない」
ん~深いなー
人の悲しみわが悲しみ

人の喜びわが喜び

『人間回復の経営学』の著書であるジョセフ・パジ-ルは統率者の三つの条件を挙げる。
仕事の知識があり技術に成熟していること。
創造的な行動、
そして感性の叡智である。
知識や技術を身につけていなければ人を統率できないのは当たり前だが、パジールに言わせれば、
こんなものは全体の二十五パーセントもあればいいということになる。これはうなずける。
明治大学野球部監督であった島岡吉郎さんは応援団長あがりで野球の技術ゼロ。
キャッチボールすらできなかった。それでいて、戦後のアマチュア監督ナンバーワンに挙げられる。
こうした例は、とりわけスポーツの世界でしばしば見られるが、仕事の知識や技術に百パーセント習熟していなくても、名統率者、名リーダーにはなれるのである。
逆に、名プレーヤーが必ずしも名監督になれないことも承知のとおりである。
また、パジールは言う。行動力がなければ人の上には立てない。しかし、闇雲に行動しても人は動かせない。
人を動かすには創造的に行動しなくてはならない。
喜働とういう言葉がある。働きが喜びになるのは、人間が創造的になったときである。
人間は意欲し創造しているときが一番生き生きしている。
ヒットラーはこの喜働を国家統合の合言葉にした。ドイツ語でアルバイトフロイテという。
日本の会社がメキシコシティに支店を出すことになった。そこで、使う椅子を町に探しに行った。
ある店を覗くと職人が椅子を作っていた。その椅子があまりにも見事なので、日本人は「これと同じ椅子を十二個頼む」と注文した。
後日、十二個の椅子と請求書が届いた。請求書を見ると十五個分の請求がある。「この請求は間違っているじゃないか」というと、
メキシコの職人はこう啖呵を切った。「わしらにとって椅子作りは喜びなんだ。この椅子はこう作りたい、この椅子はああ作りたいと創意したり工夫したりして椅子を作っている。
喜びいさんで椅子を作っているんだから、いい椅子に決まっているよ。それなのに、あんたときたら同じ椅子を十二個も頼んだ。
おかげで椅子作りの喜びが奪われてしまった。だから、わしはあんたに対して退屈料を求める権利がある。
だから三個分の上乗せをした。」それを聞いた日本人は返す言葉もなく十五個分の料金を払って帰ってきたという。
喜びのくっついた行動ならばひとを動かすことができる。そういう行動を率先してできる人間がリーダーとなれるのである。
ところで、パジールは、この創造的な行動力も二十五パーセントあればいいと言う。
では、残り五十パーセントを占めるリーダーに最も必要な条件とは何か?それが、感性のダイナミズムである。
感性のダイナミズムとは何か。それは、人の痛みを己の痛みにできる力、人の喜びを自分の喜びとして感じ取る力。
そして、自分の喜びを人に感じ取らせる力でもある。感じ取る力と感じ取らせる力、これを失っている人間は人の上には立てない」
ん~深いなー
人の悲しみわが悲しみ

人の喜びわが喜び

2006年10月16日
2006年10月13日
片岡選手の引退セレモニーで感動した!
昨日阪神タイガースの片岡選手の引退セレモニーがあった。タイガースとドラゴンズの選手から花束贈呈があり、そして片岡選手の2人のお子さんからも花束贈呈があった。つづいてファンへのスピーチ、球場一周、タイガースの選手と、また試合後ベンチに残ってくれていたドラゴンズの選手ともかたく握手を交わし、

そして最後に、阪神タイガースの選手に中日ドラゴンズの選手も加わり、胴上げがおこなわれた。

■セレモニーでの片岡選手のスピーチ
「最初に、このような自分にこのような場を与えてくださった監督、コーチ、選手、中日球団の皆様、そして最後まで残ってくださった阪神ファンの皆様、本当にありがとうございました。
日本ハムで10年、阪神タイガースで5年、日本ハムでは土橋監督、大沢監督に使っていただき、野球人としての土台を作ることができました。タイガースに来てから思うように成績が残せず、何度も泣きながら・・・(言葉につまる) 球場をあとにしたこともありまし来てから思うように成績が残せず、何度も泣きながら・・・(言葉につまる) 球場をあとにしたこともありました。高校時代に教わった気合と根性を前面に出して戦ってきましたが、 もう限界です。
夢に見た甲子園で、8歳から始まった自分の野球人生を、この夢の舞台で、そしてこれだけのお客さんの前で終わることができた自分は幸せです。
自分を生んでくれた両親、支えてくれた家族、素晴らしい先輩、素晴らしい友。
素晴らしい人生を与えてくれた野球に感謝します。
15年間本当にありがとうございました。」

このスピーチを聞いたとき、涙が出た。個人的にはタイガースファンではないが、本当に感動した。
タイガースの選手だけなくドラゴンズの選手も一緒になって胴上げをしているのを見ると、片岡選手はみんなに愛された選手だったのがよくわかった。


そして最後に、阪神タイガースの選手に中日ドラゴンズの選手も加わり、胴上げがおこなわれた。

■セレモニーでの片岡選手のスピーチ
「最初に、このような自分にこのような場を与えてくださった監督、コーチ、選手、中日球団の皆様、そして最後まで残ってくださった阪神ファンの皆様、本当にありがとうございました。
日本ハムで10年、阪神タイガースで5年、日本ハムでは土橋監督、大沢監督に使っていただき、野球人としての土台を作ることができました。タイガースに来てから思うように成績が残せず、何度も泣きながら・・・(言葉につまる) 球場をあとにしたこともありまし来てから思うように成績が残せず、何度も泣きながら・・・(言葉につまる) 球場をあとにしたこともありました。高校時代に教わった気合と根性を前面に出して戦ってきましたが、 もう限界です。
夢に見た甲子園で、8歳から始まった自分の野球人生を、この夢の舞台で、そしてこれだけのお客さんの前で終わることができた自分は幸せです。
自分を生んでくれた両親、支えてくれた家族、素晴らしい先輩、素晴らしい友。
素晴らしい人生を与えてくれた野球に感謝します。
15年間本当にありがとうございました。」

このスピーチを聞いたとき、涙が出た。個人的にはタイガースファンではないが、本当に感動した。
タイガースの選手だけなくドラゴンズの選手も一緒になって胴上げをしているのを見ると、片岡選手はみんなに愛された選手だったのがよくわかった。

2006年10月06日
大リーガー感動物語
ピートグレイさんは、1917年、ペンシルベニア州、ナンティーコークというところで生まれました。彼は機関車と野球が好きな普通の少年でした。ある日、父親に連れられて、大リーグの試合を見に行きます。ニューヨークヤンキースが大好きだった彼。ヤンキースタジアムで見たその試合。ヤンキースの攻撃、9回裏、2アウトランナー1塁、1対 0、ヤンキースが負けていました。少年ピートは、隣にいるお父さんにいいました。「パパ見てて、僕の大好きなあのバッターが必ずホームランを打って、さよなら勝ちするからね、きっと見てて、勝てるよ」と、お父さんはニコニコしながら彼を見てました。
果たして結果はどうなったか。
運命のいたずらとは恐ろしいですね。ピートの予言通りに、本当にさよならホームランがでたんです。ヤンキースは見事、さよなら勝ちをしました。その試合を見たピートは感動しました。そして、この日から大リーガーになることを夢見て、努力を始めました。
大リーグの世界、知ってびっくり。下から「Dリーグ」「Cリーグ」「Bリーグ」「ルーキーリーグ」「Aリーグ」「AAリーグ」「AAAリーグ」やっと大リーグになるんです。彼は大リーグを目指して、それはもう「挫折との戦い」、「苦悩の日々の連続」でした。
6才の時ある事故により、野球を断念しようと思いました。その時お父さんが、彼にかけた言葉、それが「諦めるな、やればできる」でした。ピートは、お父さんのその言葉だけを、胸に信じ、血のにじむような努力を始めます。
草野球チームに入りますが、一度も練習には参加させてもらえませんでした。しかし彼は不平をいわず、毎日玉拾いをし、一人で素振りの練習しました。そして、そのかたわら。野球学校へ通いました。野球学校へ通いながら、いろんな球団の入団テストを受けました。 どうなったか? ピートはことごとく、入団テストに堕ちてしまったのです。そして、ピートはどうしたか? 諦めませんでした。お父さんの言葉通り、諦めませんでした。そして、雨の日も風の日も、黙々と練習を、続ける彼の姿を見て、心を打たれた学校の先生がいました。先生は、全米のDリーグの監督に電話をかけました。「うちにピートという、熱いやつがいる、見に来てくれないか、お願いします。」その電話に触発され、Dリーグの監督が集まってきました。
そしてピートの晴れ舞台です。そこでピートは全力でプレーを見せました。 どうなったか?どこの球団も彼を雇おうとはしませんでした。
ピートはどうしたのか?打ちひしがれたのか?いいえ、それでもピートはめげませんでした。一途に努力する彼。当然、幸運の女神が見はなすはずはないんですよね。24才の時、ニューヨークのセミプロ球団、「ブッシュウイックス」から声がかかりました。彼は「大好きな野球ができる。僕はセミプロ球団でもかまわない」喜んで入団しました。
そして、そこで、素晴らしい成績を残しました。こういう活躍を見てるひとがいるんですよね。その活躍を見ていた、マイナーリーグの「スリーリバース」という球団の監督が大抜擢します。そして、何とピートはこの「スリーリバース」で打率3.81。素晴らしい成績を残します。
このような相次ぐ大抜擢にも、全くおごること無く、努力を続けるピートに、次々と幸運の扉が開かれました。1943年、AAAの「メンフィス・チックス」に昇格、そして彼は、ついにこのチームでMVPを獲得しました(打率333、盗塁68)
そして、ついに夢の叶う時がやってきました。1945年大リーグの「セントルイスブラウンズ」がピートの採用を決定しました。
そしてピートの初打席です。 彼は大きく息きをすって、バッターボックスに入りました。
1球目、空振り、2球目、空振り、3球目、空振三振とピートの初打席は、三振に終わりました。 でもその三振を見て、スタンドの観客達は、総立ちになり、終わらない拍手を送りました。
おかしいですよね。三振して拍手なんてあり得ないですよね。その球場の観客達は、そのピートの姿に、釘付けに、されていました。
実は彼は、6才の時の事故で、右腕を根元から切断されていました

大好きな機関車を見に行って、その下敷きになったんです。泣きじゃくるピート。6才にして、片腕を無くしたピートに、父親がかけた言葉が、それが「諦めるな」だっだのです。お父さんはこう言いいました。
「あの時、もしも、彼から、野球という夢まで奪ってしまえば、もう、彼には何も残らない。「諦めるな」と言うしか、他になかったと。そしてその言葉だけを、信じ、罵られ、差別を受け、練習にも参加させてもらえない。ずーと入団テストに、堕ち続けた、その苦い、思いを乗り越え、営々と、努力し続けた彼、その偉大な三振に。観客は惜しみない拍手を送りました。
でも彼が大リーグに採用されたのは、時が遅かったんです。寄る年並には勝てず、かれは、1年で、その生活にピリオドを打ちます。そして故郷に帰り、少年野球の指導をし、87才で生涯を閉じます。彼が亡くなる前、我々に残した言葉があります。この言葉で締めくくりたいとおもいます。
「私の子供の頃の夢は、ヤンキースタジアムで野球をすることでした。
そして、それを叶えられたことが、自分の人生にとって、もっとも素晴らしい出来事だったと思います。
自分のような、体に生涯をもつ者にとって、練習こそが全てでした。
でもたとえ練習しても自分にやってくるチャンスはわずかなものでした。
ある時こう言われたことがあります。
「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、片腕で野球なんかできるわけがないだろう」
それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。
最後に好きな言葉を送ります。」
『勝者は決して諦めない。』
ピートグレイ
果たして結果はどうなったか。
運命のいたずらとは恐ろしいですね。ピートの予言通りに、本当にさよならホームランがでたんです。ヤンキースは見事、さよなら勝ちをしました。その試合を見たピートは感動しました。そして、この日から大リーガーになることを夢見て、努力を始めました。
大リーグの世界、知ってびっくり。下から「Dリーグ」「Cリーグ」「Bリーグ」「ルーキーリーグ」「Aリーグ」「AAリーグ」「AAAリーグ」やっと大リーグになるんです。彼は大リーグを目指して、それはもう「挫折との戦い」、「苦悩の日々の連続」でした。
6才の時ある事故により、野球を断念しようと思いました。その時お父さんが、彼にかけた言葉、それが「諦めるな、やればできる」でした。ピートは、お父さんのその言葉だけを、胸に信じ、血のにじむような努力を始めます。
草野球チームに入りますが、一度も練習には参加させてもらえませんでした。しかし彼は不平をいわず、毎日玉拾いをし、一人で素振りの練習しました。そして、そのかたわら。野球学校へ通いました。野球学校へ通いながら、いろんな球団の入団テストを受けました。 どうなったか? ピートはことごとく、入団テストに堕ちてしまったのです。そして、ピートはどうしたか? 諦めませんでした。お父さんの言葉通り、諦めませんでした。そして、雨の日も風の日も、黙々と練習を、続ける彼の姿を見て、心を打たれた学校の先生がいました。先生は、全米のDリーグの監督に電話をかけました。「うちにピートという、熱いやつがいる、見に来てくれないか、お願いします。」その電話に触発され、Dリーグの監督が集まってきました。
そしてピートの晴れ舞台です。そこでピートは全力でプレーを見せました。 どうなったか?どこの球団も彼を雇おうとはしませんでした。
ピートはどうしたのか?打ちひしがれたのか?いいえ、それでもピートはめげませんでした。一途に努力する彼。当然、幸運の女神が見はなすはずはないんですよね。24才の時、ニューヨークのセミプロ球団、「ブッシュウイックス」から声がかかりました。彼は「大好きな野球ができる。僕はセミプロ球団でもかまわない」喜んで入団しました。
そして、そこで、素晴らしい成績を残しました。こういう活躍を見てるひとがいるんですよね。その活躍を見ていた、マイナーリーグの「スリーリバース」という球団の監督が大抜擢します。そして、何とピートはこの「スリーリバース」で打率3.81。素晴らしい成績を残します。
このような相次ぐ大抜擢にも、全くおごること無く、努力を続けるピートに、次々と幸運の扉が開かれました。1943年、AAAの「メンフィス・チックス」に昇格、そして彼は、ついにこのチームでMVPを獲得しました(打率333、盗塁68)
そして、ついに夢の叶う時がやってきました。1945年大リーグの「セントルイスブラウンズ」がピートの採用を決定しました。
そしてピートの初打席です。 彼は大きく息きをすって、バッターボックスに入りました。
1球目、空振り、2球目、空振り、3球目、空振三振とピートの初打席は、三振に終わりました。 でもその三振を見て、スタンドの観客達は、総立ちになり、終わらない拍手を送りました。
おかしいですよね。三振して拍手なんてあり得ないですよね。その球場の観客達は、そのピートの姿に、釘付けに、されていました。
実は彼は、6才の時の事故で、右腕を根元から切断されていました

大好きな機関車を見に行って、その下敷きになったんです。泣きじゃくるピート。6才にして、片腕を無くしたピートに、父親がかけた言葉が、それが「諦めるな」だっだのです。お父さんはこう言いいました。
「あの時、もしも、彼から、野球という夢まで奪ってしまえば、もう、彼には何も残らない。「諦めるな」と言うしか、他になかったと。そしてその言葉だけを、信じ、罵られ、差別を受け、練習にも参加させてもらえない。ずーと入団テストに、堕ち続けた、その苦い、思いを乗り越え、営々と、努力し続けた彼、その偉大な三振に。観客は惜しみない拍手を送りました。
でも彼が大リーグに採用されたのは、時が遅かったんです。寄る年並には勝てず、かれは、1年で、その生活にピリオドを打ちます。そして故郷に帰り、少年野球の指導をし、87才で生涯を閉じます。彼が亡くなる前、我々に残した言葉があります。この言葉で締めくくりたいとおもいます。
「私の子供の頃の夢は、ヤンキースタジアムで野球をすることでした。
そして、それを叶えられたことが、自分の人生にとって、もっとも素晴らしい出来事だったと思います。
自分のような、体に生涯をもつ者にとって、練習こそが全てでした。
でもたとえ練習しても自分にやってくるチャンスはわずかなものでした。
ある時こう言われたことがあります。
「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、片腕で野球なんかできるわけがないだろう」
それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。
最後に好きな言葉を送ります。」
『勝者は決して諦めない。』
ピートグレイ

















