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むねやん
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変化を生きる

変化には三つの特徴がある。加速性、断続性、波及性の三つである。

変化は加速する。いまや十年一昔などあり得ない。一年一昔。いや、一か月一昔、十日一昔と言ってもいい。
このような激変の時代に対応するには「今泣いた烏がもう笑う」子供のようなしなやかさで臨まなくてはならない。禅的な境地が必要だ。それが変化の加速を見事に捉え切る秘訣である。

変化は断続する。切断されているから至るところに崖がある。だから、いつでも身軽に翔べることが大事である。このような時代に重い荷物を持っていては翔べはしない。ゆえに、いろいろな持ち物を捨てたり忘れたりすることが必要である。これからは「忘」と「捨」の時代である。

変化は波及する。波及の時代にあって経営者は経営学の勉強をしすぎてはいけない。むしろ経営学以外の勉強をし、裾野を広げることによって波及する変化をつかまえ、味方にすることができる。文学や芸術や歴史、そして趣味の世界である。

変化を味方にできる人間こそ、二十一世紀に生き残る人間である。

変化の時代を生き抜くためには二つのことだけあればいい。一つはイマジネーション、もう一つは情熱。この二つがかみ合ったとき、混迷の時代はおもしろい時代に変わる。
感奮語録 | 投稿者 むねやん 23:15 | コメント(2)| トラックバック(0)

自分探し

*自分探し
自分が自分になりきったとき、心自ら歓喜する。これ以上の喜びはない。


*知ることは隔たること
知や理が感性を圧倒すれば危険である。創造(感性)の欠けた分析ほど危険なものはない。

ここに一輪の花が咲いている。私はその花について何も知らない。ただ神秘があり驚きがある。そのとき私は花と一つになっている。ところが、花のことを知ってしまった途端、私と花は隔たってしまう。知るということは、隔たることだ。

知は禍なり。博学にして要を失す。

知性や理性はすべてを分析し、客体とする。自分でさえも。その結果、自分が自分から隔たり、自分に一体化しない。これが二十一世紀を襲う人間の最大の危機である。

真知は光である。


感奮語録 | 投稿者 むねやん 12:33 | コメント(1)| トラックバック(0)

驀直去(起死回生の哲学)

十七歳の執権北条時宗のところに蒙古の使者がやってきて、属国になれと迫った。臆病な時宗は最初使者に酒と女をあてがった。一時はそれでしのげたが、再び使者は返事を迫ってくる。どうすべきかわからない時宗は、中国から円覚寺に来ていた無学祖元に助けを求める。そのとき無学祖元が時宗にたたきつけた教えが「驀直去(まくじきこ)」である。この意味が解けない時宗は座る。解けない。ついに自分の額を壁にたたきつけると眉間が割れて鮮血が飛び散る。その血だらけの中の自分との闘いの中で彼は忽然として悟る。そして蒙古の使者たちの首を刎ねた。

「驀直去」とはまっしぐらに一直線に突き抜けろということである。避けるな、逃げるな。酒と女をあてがったところで国が救えるか?そんな小手先細工では国を救うことはできないぞ。無学祖元はそれを時宗に教えたかったのである。

「大事到来、いかにしてこれを避くべくや」という禅の公案がある。「酷暑到来、酷寒到来、いかにしてこれを避くべきや」。その答えは「夏炉冬扇」。そんなに暑かったら囲炉裏にあたっておけ、そんなに寒かったら扇を使っておけ。暑いときには暑さの中へ入れ、寒いときには寒さの中へ入れ、そしてそれを突き抜けろ、ということである。

良寛も言う。「苦しいときは苦しむがよき候。悲しいときは悲しむがよき候。死ぬるときは死ぬるがよき候。これ苦節を避ける妙法にて候」と。苦しいときには苦しさの中に入れ。そこから逃げている限り、苦しみがつきまとう。

吉田松陰は弟子たちにこう説いている。「国難襲来す。国家の大事といえども深憂するに足らず。深憂とすべきは人心の正気の足らざるにあり」と。

勝海舟は事あるごとに「じたばたするねえ」と一喝したという。浮き足立つんじゃねえぞ、正しい気力と気迫がありさえすれば怖いものなんかないんだ、ということである。

気力と気迫、これがすなわち藤田東湖の言う正気である。
感奮語録 | 投稿者 むねやん 02:03 | コメント(0)| トラックバック(0)

生きることは燃えること

蘇東坡が師匠の仏印禅師に「仏とはいかなるものか」と問うた。
すると仏印禅師は「仏もまた一個有血的男児」と答えた。つまり、血の気が多くなったときに仏性が出るというのである。
燃えているときには仏になる。冷めている人間はサタンである。
燃えることが生きることなのである。
三百億光年もの昔、原始の宇宙は火の海であったという。
そこにあったマグマが飛び散って地球が生まれ、その地球上に数万種類の生き物が生まれた。
ゆえに人類の起源とはマグマの中にある。

人間に三十数度の体温があり、その吐く息が熱いように、燃えているときが生きているときなのである。

その人間がどう生きたかは、何にどうときめいたか、何にどう燃えたか、の度合いで決まる。

ボストンフィルのボブ・サンダースはこう言っている。
「燃え上がるには熱狂が必要だ。人々の胸を熱くするために必要なことなら私は何でもやる。私は単なる指揮者ではない。私は熱狂のディスペンサーだ。」
ディスペンサー(仕掛け屋)。
吉田松陰など、まさしく熱狂のディスペンサーであろう。
感奮語録 | 投稿者 むねやん 11:41 | コメント(1)| トラックバック(0)

リーダーの条件

「現在の日本の混迷はリーダー不在を原因としている。では、リーダーの条件とはいったいどういうものか。

『人間回復の経営学』の著書であるジョセフ・パジ-ルは統率者の三つの条件を挙げる。

仕事の知識があり技術に成熟していること。

創造的な行動、

そして感性の叡智である。

知識や技術を身につけていなければ人を統率できないのは当たり前だが、パジールに言わせれば、

こんなものは全体の二十五パーセントもあればいいということになる。これはうなずける。



 明治大学野球部監督であった島岡吉郎さんは応援団長あがりで野球の技術ゼロ。

キャッチボールすらできなかった。それでいて、戦後のアマチュア監督ナンバーワンに挙げられる。

こうした例は、とりわけスポーツの世界でしばしば見られるが、仕事の知識や技術に百パーセント習熟していなくても、名統率者、名リーダーにはなれるのである。

逆に、名プレーヤーが必ずしも名監督になれないことも承知のとおりである。

 また、パジールは言う。行動力がなければ人の上には立てない。しかし、闇雲に行動しても人は動かせない。

人を動かすには創造的に行動しなくてはならない。



 喜働とういう言葉がある。働きが喜びになるのは、人間が創造的になったときである。

人間は意欲し創造しているときが一番生き生きしている。

ヒットラーはこの喜働を国家統合の合言葉にした。ドイツ語でアルバイトフロイテという。



 日本の会社がメキシコシティに支店を出すことになった。そこで、使う椅子を町に探しに行った。

ある店を覗くと職人が椅子を作っていた。その椅子があまりにも見事なので、日本人は「これと同じ椅子を十二個頼む」と注文した。

後日、十二個の椅子と請求書が届いた。請求書を見ると十五個分の請求がある。「この請求は間違っているじゃないか」というと、

メキシコの職人はこう啖呵を切った。「わしらにとって椅子作りは喜びなんだ。この椅子はこう作りたい、この椅子はああ作りたいと創意したり工夫したりして椅子を作っている。

喜びいさんで椅子を作っているんだから、いい椅子に決まっているよ。それなのに、あんたときたら同じ椅子を十二個も頼んだ。

おかげで椅子作りの喜びが奪われてしまった。だから、わしはあんたに対して退屈料を求める権利がある。

だから三個分の上乗せをした。」それを聞いた日本人は返す言葉もなく十五個分の料金を払って帰ってきたという。



 喜びのくっついた行動ならばひとを動かすことができる。そういう行動を率先してできる人間がリーダーとなれるのである。



 ところで、パジールは、この創造的な行動力も二十五パーセントあればいいと言う。

では、残り五十パーセントを占めるリーダーに最も必要な条件とは何か?それが、感性のダイナミズムである。

感性のダイナミズムとは何か。それは、人の痛みを己の痛みにできる力、人の喜びを自分の喜びとして感じ取る力。

そして、自分の喜びを人に感じ取らせる力でもある。感じ取る力と感じ取らせる力、これを失っている人間は人の上には立てない」




ん~深いなー

人の悲しみわが悲しみ
大粒の涙



人の喜びわが喜び
夏休み!
感奮語録 | 投稿者 むねやん 13:03 | コメント(0)| トラックバック(0)

劣等感というエネルギー

『劣等感というものは、ともすればネガティブなものと捉えられがちだが、実はエネルギーの点火剤になる。世に傑物といわれた人たちは、皆何らかの劣等感を持っていた。

ある病院の理事長であり政治家でもある人物は生家が貧乏であったために医者に診察を断られ、病気の弟を見殺しにしてしまった。それが反発のエネルギーなって医者になり、医師会のドンといわれた武見太郎にかみついて、休日診療を行う病院を作ったのである。

田中角栄は小学校しか出ていないことを発奮のエネルギーとして宰相にまでのぼりつめ、超エリートの集まりである大蔵官僚の首根っこを握ってしまった。

アレキサンダー大王はコンプレックスの塊であった。彼はいつも「いつか目にもの見せてやる」と発奮し続け、二十三歳の若さで大帝国を築く。

劣等感はエネルギーである。しかし、残念なことに劣等感をばねにできる人間はほんの一握りしかいない。大半は劣等感から卑屈になり、ひねくれてしまう。それは、感性が弱まっている証拠でもある。なぜなら感性は素直さだからである。』



感奮語録 | 投稿者 むねやん 01:26 | コメント(1)| トラックバック(0)

集中の世界

感性とは集中・統合・統一の機能である。それゆえに集中できなくなると感性は鈍くなる。

集中するとは思考停止のすることである。千日行にしろ、滝壺修行にしろ、火中歩行にしろ、少しでも考えてしまうと命にかかわる。思考停止の行である。

どうすれば考えることをやめられるのか。その一つに半眼の世界を作ることがある。目を開けると考える材料が目から飛び込んでくる。目をつぶるとまた考えてしまう。ゆえにその真ん中をとる。それが半眼の世界である。目を半眼にして息をゆっくりと数える。数息法である。雛鳥の産毛が鼻の両側についているとし、それを吹き飛ばすなと。すなわち長い息である。

日本航空の創始者である柳田誠二郎は長生きをされた方であった。あるときその秘訣を聞くと、「長い息だ」と。確かに長寿の方は概して息が長い。ゆっくりと息を吐く。

現代人は息を吸うことばかりで、吐き出す訓練ができていない。ゆっくりとずーっと吐き出していくと、息は無理なく入ってくるものである。出入口とある。入出口はない。出さなければ入らない。

現代人は、肩に力が入りすぎる。それは息を吸う訓練ばかりしているからだ。息を吸うと肩に力が入る。これは実際に試してみればすぐわかることだ。

半眼にしてゆっくり吐き出して、一つ二つと息を数えていると自然に思考は止まっていく。
感奮語録 | 投稿者 むねやん 02:39 | コメント(5)| トラックバック(0)

前後裁断

「今」と「ここ」のみ
獣には時の観念がない。獣には「昨日はよかった」も「明日はなんとかなるだろう」もない。獣にあるのは「今」と「ここ」だけだ。だから、迷わない。不安もない。

不安や迷いは時がつくるものである。昨日と今日と明日をつないで見るから不安になり。迷いが起こる。「今」と「ここ」しかないと思えば、何もないのである。

現代人はあらゆるものを連鎖する。昨日と今日と明日を連鎖するから不安で憂鬱になる。連鎖を捨て去れば、不安は生まれない。

明日はなんて本当にあるのか。明日は生きていると誰が言い切れる。明日はなんてもともとありはしない。「今」と「ここ」しかない。

「これから頑張ります」のこれからはない!
一生懸命というのは言語学的に存在しない。一所懸命でなくてはならない。

芭蕉の句に「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」とある。蝉は明日死ぬという気配もなく、ただ今を鳴くだけである。

映画『カサブランカ』のせりふ。
「夕べはどこにいたの?」
「そんな昔のことは忘れた」
「今晩会ってくれない?」
「そんな先のことはわからない」

あるのは「ただ今」だけなのだ。

前後裁断。あるのは「今」と「ここ」だけ。あたかも最後であるかのごとくに今を生きる。

「明日に希望を持て」と言う。希望を持つことは大事だが、明日を逃げ場にしていることが多い。本当の生とは明日にあるわけじゃない、昨日にあったわけでもない。「ここ」にしかないのだ。生きとし生けるものは「今」と「ここ」にしかいないのである。

今を捨石にしている人間にどのような明日が来るというのか。明日に希望を持とうとするなら、今に徹することだ。明日に逃げたり、昨日を懐かしがったりして生きていく生は鮮やかではない。

ドラッカーの名言、「今を生きるということは、明日を今に巻き込み引き寄せることだ」。今が粗末な人間に明日はない。

行徳哲男著
感奮語録 | 投稿者 むねやん 23:15 | コメント(1)| トラックバック(0)

素朴愚拙

男の魅力、人間の魅力は「素」「朴」「愚」「拙」の四つの言葉で表すことができる。

「素」のよさは何も身につけない。木を見るとわかる。枝葉をつけた木は見栄えはいいが、滋養は枝や葉が吸ってしまい、幹は弱る。枯れ木は見栄えこそないが、実に力強い。これこそが、「素」の魅力である。

「朴」とはいうなれば泥臭さ。柴田錬三郎がシベリア拘留中の話を書いている。そこに極寒の中で靴下をしばしば盗まれたという話があるが、盗人はインテリや育ちのいい人間であったという。それに対して「俺の靴下を履けよ」と情けを示したのは魚屋のおやじやヤクザ者だったそうだ。そういう限界状況で情けを示せる人間には、どこか朴訥な田舎っぽいところがあると柴田錬三郎は言う。

「愚」の魅力とは、阿呆になれる、馬鹿になれることである。そういう人物の下にはたくさんの人が集まるものだ。「この人のために」とみんなが思う。それが、本当の利口というものだ。一方、目から鼻に抜けるような才長けた人間は慕われないし、人も寄りつかない。ゆえに利口は馬鹿であり、馬鹿は利口なのだ。馬鹿こそ力。馬鹿力のゆえん。

「拙」とは下手くそのことである。下手くそな人間は魅力的だ。今は上手に生きようとする人間、要領居士があまりに多すぎる。ゆえに人間の魅力がなくなっているのである。

行徳哲男著
感奮語録 | 投稿者 むねやん 11:28 | コメント(1)| トラックバック(0)

感性

かつて感性といえば人間のはしたないもの、卑猥なものとして馬鹿にされていたものだが、今は感性ははやり言葉のようになっている。だが、言葉になったらすでに感性ではない。感性とは言葉で表されるものでは決してない。

それでもなお感性とは何かと聞かれれば、一つは「紛れもない私である」、そしてもう一つは「今ここにしかないものである」と。感性とは紛れもない私のことである。ゆえに、感性が鈍い人間は私が鮮やかではない。感性が豊かな人間は「今ここ」が鮮やかである。

行徳哲夫著
「感奮語録」より
感奮語録 | 投稿者 むねやん 00:53 | コメント(2)| トラックバック(0)

指導者の絶対条件

「大事なことを明らかにしないまま生きているから、みんな苦しむ」

大事なものを明らかにすること。

ぼんやりしているものに明かりを当てること

私たちが苦しむのは、ぼんやりと曖昧なまま生きているから。

何が大事かが、鮮やかになってくれば、苦しみからも解き放たれる。

指導者たる絶対の条件は哲学と気迫!
感奮語録 | 投稿者 むねやん 13:30 | コメント(3)| トラックバック(0)
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